湖西窯跡群について

更新日:2021年08月03日

東日本でも有数の窯業生産地であった湖西

市内で見つかった古代の窯跡(谷上第2地点)

湖西市から豊橋市東部にかけての山林部には、古墳時代(5世紀末)から鎌倉時代の終わりごろ(14世紀前半)にかけての窯跡が非常に多く分布しており、これらは「湖西窯跡群(こさいかまあとぐん)」と呼ばれています。
湖西窯跡群の生産は飛鳥時代(7世紀前半)から奈良時代(8世紀前半)にかけての時期が特に盛んでした。この時期に作られた焼き物は、静岡県をはじめ、山梨県、神奈川県、東京都・埼玉県・千葉県・茨城県・栃木県・福島県・宮城県の遠隔地に広がり、最北端は青森県八戸市まで流通していたことが分かっています

市内で見つかった中世の窯跡(山口第17地点)

その後、平安時代になると窯の中心は豊橋市二川に移るものの、平安時代の終わりごろ(12世紀前半)には再び湖西で操業が開始されました。この時期には碗・皿・甕などの陶器を生産していました。鎌倉時代(13世紀)には、同じ東海の巨大窯業地である、古瀬戸窯や常滑窯と競合しながらも規模を拡大させていきますが、鎌倉時代の終わりごろ(14世紀初頭)には廃絶してしまい、その後大規模な窯業生産が行われることはありませんでした。
約800年の間に築かれた窯の数は非常に多く、窯のある場所は市内だけでも200箇所近くに上り、1箇所に2~4基、多い場合は10基近くの窯があるため、合計1000基近い数が存在していると目されています。このように、遥かな昔から湖西の地は日本列島でも有数の先進工業地帯だったのです。

湖西で作られていた焼き物

古代の湖西窯産須恵器

湖西窯跡群では古代には「須恵器(すえき)」、平安時代の終わりごろから鎌倉時代にかけては「山茶碗(やまちゃわん)」と呼ばれる焼き物を生産していました。
須恵器とは5世紀頃(約1600年前)に朝鮮半島から伝わってきた土器です。窯を使って高温で焼き上げるのが特徴で、5世紀の終わりごろには列島の各地でも生産されるようになりました。須恵器は焼き上げる際に、一度高温の状態で窯をふさいで蒸し焼きの状態にします。これにより外からの酸素の供給が減るため、灰色の還元色に仕上がります。
一方、山茶碗とは12~15世紀にかけて東海地方で生産されていた中世陶器のことです。釉薬を施さないのが特徴で、湖西では碗、皿、甕などの日常雑器の他、京都仁和寺円堂院の瓦や、陶製五輪塔(とうせいごりんとう)など、少量の特注品も生産していました。

平安末~鎌倉末の湖西窯産中世陶器

湖西で作られた瓦(山口第17地点)

最近の発掘調査

発掘調査地の様子

令和元年度から令和3年度の3ヵ年で、「浜名湖西岸土地区画整理事業」に伴う発掘調査を実施しています。現在までに事業地内の8ヶ所で合計19基の窯が発見され、その内7ヶ所17基が須恵器窯でした。
一連の調査で見つかった窯は、市内のほかの窯跡と比較しても非常に状態がよく、これまで良く分かっていなかった須恵器窯の構造を考える上で非常に重要な発見となりました。

古代の窯跡(古見第36地点)

中世の窯跡(古見第39地点)

さらに詳しく知りたい方は

文化観光課窓口で、湖西窯跡群についてのパンフレットや、浜名湖西岸土地区画整理事業で見つかった窯跡の発掘調査概報を配布しています。
また、『湖西風土記文庫-振り返る-』にも湖西窯跡群のことが記載されています。
(文化観光課で販売 1冊800円)

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湖西窯跡群についてのパンフレット

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古見古窯跡群発掘調査概報

この記事に関するお問い合わせ先

文化観光課 文化係

〒431-0492
静岡県湖西市吉美3268
電話番号:053-576-1140 ファクス番号:053-576-4876
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