大知波峠廃寺跡について
湖西連峰の山中にあった幻の山寺
現在の大知波峠廃寺跡の様子
大知波峠廃寺跡は、浜名湖北西部の湖西連峰の大知波峠(標高約350m)に位置する、10世紀中ごろから11世紀末頃に栄えた山寺の遺跡です。大知波峠廃寺跡に関する古文書や言い伝えは残されておらず、文献に出てこない「幻の山寺」です。
平成元年(1989)から7年間にわたって湖西市教育委員会が実施した発掘調査では、広さ約3.7haの緩斜面から、合計12棟の礎石建物跡や池跡、通路跡など、寺院に関連する多くの遺構が見つかっています。
調査の結果、大知波峠廃寺跡は以下の3つの時期を経たことがわかっています。はじめに、大知波峠の地が利用され始めた8世紀後半の時期、次に、10世紀中頃から11世紀前半に建物が整えられた後寺院が一度廃絶を迎える11世紀末までの時期、そして、一度廃絶した地に再び小さな堂がたてられる12世紀後半の時期です。
また、調査では灰釉陶器※や緑釉陶器※といった平安時代の遺物が大量に出土しており、墨書土器※も多数見つかっています。
※灰釉陶器(かいゆうとうき):植物の灰を用いた釉薬を使って作られた陶器。平安時代に生産された。
※緑釉陶器(りょくゆうとうき):銅化合物を用いた釉薬を使って作られた緑色の陶器。奈良時代から平安時代に生産された。
※墨書土器(ぼくしょどき):墨書きが施された土器。大知波峠廃寺跡では灰釉陶器に施されており、水に関係した儀式に用いられたと考えられる。
調査時の大知波峠廃寺跡の礎石建物(A)
調査時の大知波峠廃寺跡の礎石建物(B2)
大知波峠廃寺跡の出土土器
大知波峠廃寺跡から出土した墨書土器
古代と中世のはざまで
湖西連峰山中の信仰の場(不動の滝)
大知波峠廃寺跡は磐座※や若水※、水分信仰※といった山中での信仰から発展し、徐々に寺院が形作られていったと考えられています。これは最初から寺院建物の構成や配置が統一されていた七堂伽藍※とは対極にあります。
11世紀中頃を境として、墨書土器や出土遺物が激減し、11世紀末頃に廃絶する姿は、古代(平安時代)と中世(鎌倉時代)のはざまにあった、大きな信仰の変化を感じさせます。
平安時代には真言宗や天台宗の伝来に伴い、近畿で多くの寺院が山中に築かれ、また地方でも多数の山寺が営まれました。大知波峠廃寺跡はそのような地方寺院の一つであり、密教系寺院跡であると考えられます。遺構の残りが非常に良好で、平安時代中頃の特色ある地方寺院の好例として、平成13年(2001)1月29日に国の史跡に指定されました。
※磐座(いわくら):神が鎮座すると考えられ、信仰の対象となった岩石。
※若水(わかみず):元旦に初めて汲む水であり、一年の邪気を払うと考えられている。
※水分信仰(みくまりしんこう):水の分配をつかさどる水分神への信仰で、水分神は雨乞いの対象とされた。
※七堂伽藍(しちどうがらん):寺の主要な七つの堂や、それらがそろった寺院のこと。
さらに詳しく知りたい方へのご案内
現地へのアクセス
【公共交通機関の場合】
○天竜浜名湖鉄道新所原駅より知波田駅まで約10分。知波田駅下車後、タクシーで約10分、徒歩で約1時間でおちばの里親水公園。ここからさらに登山道を約45分歩くと大知波峠廃寺跡。
【自家用車の場合】
○東名高速道路三ヶ日ICより、浜名湖沿岸部を南下後、約30分でおちばの里親水公園。
※おちばの里親水公園から大知波峠廃寺跡までは登山道となります。十分な体調のもと、天候や装備、体力等を考慮したうえでお楽しみください。
大知波峠廃寺跡に関する刊行物
文化観光課窓口で、大知波峠廃寺跡のパンフレットを配布しています。また、市内の図書館で大知波峠廃寺跡に関する各種調査報告書や書籍をご覧いただくことができます。
大知波峠廃寺跡のパンフレット
大知波峠廃寺跡シンポジウム事業報告書
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文化観光課 文化係
〒431-0492
静岡県湖西市吉美3268
電話番号:053-576-1140 ファクス番号:053-576-4876
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更新日:2023年01月08日