白須賀宿(見どころ)
火鎮(ほずめ)神社の拝殿から参道を東へ40メートルほど行くと、稲荷山という孟宗竹の林の中に、小さな境内があります。朱色の鳥居をくぐり、石段を登ると、そこには間口1.5メートル、奥行き1.8メートルほどの総檜、瓦葺きのお社があり、お稲荷様がまつられています。かつてこの地域では、漁をして生計を立てている人が多かったので、大漁祈願のために三浦半島の葉山のお社までご神体を受けに行き、おまつりするようになったと言い伝えられています。
一里塚は、徳川家康が最初に手掛けた東海道の整備事業のひとつ。江戸日本橋から1里(約4キロメートル)ごとに京都の三条大橋まで造られました。
このあたりでは、一里塚のことを一里山と呼んでおり、石碑にも「一里山旧址」と彫られています。
山上から遠州灘の大海の潮を見るということからこの名で呼ばれています。
また、海上安全を願う漁民の習わしとして、遠州灘を行き交う船は必ず帆を下げて観音様の名前を念じて通り過ぎることとされていたので、またの名を「帆下げ観音」とも呼ばれていました。
墓地のことを卵塔場というところから「おらんとう様」という名が付けられています。
墓碑は15基あり、中央にはひときわ立派な石塔が建っています。最も古い墓碑には万治3年(1660)の年代が見られ、そのほかの墓碑にも寛文や元禄の年代が見えます。
この墓地は、白須賀宿がまだ坂下にあったころ、宿のためにいろいろと骨をおった人たちの墓であろうと言われています。
旧東海道潮見坂の中ほどに、蔵法寺(ぞうぼうじ)へつながる小道があります。この小道を50メートルほど行ったところに「うないの松」といわれた大松の切り株と、この松をよんだ久内和光(くないかずみつ)の歌碑があります。
「うない」とは、うなじのことで、松があった位置が潮見坂の首にあたるところから名付けられました。
昔、廻船のための灯台があったことから、この名で呼ばれています。標高は70メートルほどですが南と東西の傾斜はきつく、昔は、頂上から遠州灘が一望できる眺望絶景の地であったようです。
また曳馬城の外城である白須賀城がここにあったと言われています。
潮見坂は、街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。西国から江戸への道程では、初めて太平洋や富士山の見える場所として、旅人の詩情をくすぐった地です。歌川広重も、この絶景には関心を抱いたようで、遠州灘を背景に、その一帯の風景を忠実に描いています。
白須賀宿の歴史文化に関する知識を広めるとともに、散策する人々の交流休憩ホールとして、新たな文化、交流の発信拠点として活用されています。
展示概要
- 宝永4年に宿を襲った津波の記録
- 白須賀宿の文化人
- 和紙人形による潮見坂風景の再現
- 白須賀宿昔語り
- 企画展示 他
明治天皇が江戸へ行幸する途中に休まれた潮見坂上は、かつて織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰るとき、徳川家康が茶亭を新築して信長をもてなしたところでもあります。大正13年(1924)4月、町民の勤労奉仕によりこの場所に公園が造られ、明治天皇御聖跡の碑が建てられました。
現在は、公園敷地跡に中学校が建てられていますが、明治天皇御聖跡の碑は残されています。
明治天皇が明治元年(1868)10月1日に潮見坂上で休憩されたのを記念に建てられた明治天皇御聖跡碑をはじめ、夏目甕麿、加納諸平、藤屋五平、義僕平八郎の顕彰碑や元白須賀町長の山本庄次郎、医師で地域の文化振興に尽くした石川榮五郎の碑、そして忠魂碑があります。
蔵法寺の管理下にあり、創建は不明。宿場所替えの宝永5年(1708)にほかの諸寺とともに元宿から移転したと伝えられています。お堂には、この地方には珍しく鐘楼(しょうろう)・梵鐘(ぼんしょう)もあって、旧盆の期間を通じて鐘の音が白須賀のまちに響きわたります。無住となって数十年がたちます。
白須賀宿には、本陣が1軒、脇本陣が1軒ありました。
本陣は、大名や身分の高い人が宿泊した施設です。白須賀宿の本陣職は大村庄左衛門で、本陣の規模も建坪が183坪、畳敷231畳、板敷51畳と大きなものでした。
脇本陣は、副本陣ともいうべき性質のもので、大名の家来などが宿泊した施設です。
旧道の両側に生い茂る大きな槇の木が目に入ります。これは火防樹と呼ばれ、火事の延焼を食い止めるために植えられたものです。白須賀宿の民家は軒が連なり、延焼しやすい町並みでした。
昔はどこの宿場にでもありましたが、静岡県内で残っているのはここだけです。
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更新日:2019年10月24日